「能ある鷹は爪を隠す」に囚われすぎちゃあいませんか/030
責任って言葉について深く考えたことはありますか。責任って言葉を、普段どう使っていますか。
最近、ちょっとだけ自分のなかで変わってきているなあと思うことがある。自分のできることや作れるもの、描けるものをちょっとだけ、人前に曝け出すようになってきた。
今まで、特に仕事とか働いているとき、自分のできることを隠すことが多かった。
それは変な恥ずかしさとか、大したもんじゃないんだという気持ちもあるけれど、いちばん大きかったのは変な人に変な目をつけられたら嫌だなあ・怖いなあ・面倒だなあという思いだ。
わたしはずっと、自分ができることは自分がやりたいことに使いたかったし、自分と関わりのある人に使いたかったし、それは今も変わらない。たぶん、何にしても「自分で選びたい」のだと思う。けれどちょっとずつ、本当にそれでいいんだろうかと思うように、ようやくなってきた。
いま自分がこうなっているのは、本当にいろいろな要因やきっかけが絡みに絡まった結果だと思うから、ちょっとやそっとじゃあとても言い表せない。でも、その中でも一等大きそうな心境の変化は、自分ができるようになったものやことって、本当に偶然の賜物なのではないかと思う気持ちが強まってきていることだ。
「努力できるかできないか」も、遺伝で決まるという説があるらしい。あまり詳しい話を読んでいないので、どんな根拠かはわからない。
自分が今まで頑張ってきたから得たもの、だと思っていたものが、実は本当に偶然ものすごく恵まれていて、いろいろな要素が惑星直列を起こして、運良く得たものだとしたら。それは、それを必要としているところで使わないといけない気がする。
そこで思ったのだ。それって、「責任」だよなーと。
わたしは以前から「責任」という言葉の定義として、大好きな作品である『仮面ライダー鎧武』から、「自分にしかできないことをやり遂げるための力を引き受けること」という考え方を採用している。
けれど、その定義のもと物事を見てみると、一般的にはなんというかもっと、「失敗したときにはそのリスクを負う」というニュアンスが強い気がする。社会的な意味合いとか、圧力的なとも言えるのかもしれない。けれど、そのニュアンスってこう、わくわくしないだろう。
いま採用している「責任」は、なんだかもっと人間、生き物が生まれながらにして持つものみたいな感じがする。その環境でたまたま自分ができることがあるのなら、最大限それを引き受ける。やっぱりわたしはこっちが好きだ。
と言いながらもわたしの今のスローガンは「中庸」なので、いまの自分ができることは本当に運良く掴んだもので、偶然の産物だと思う気持ちと同じぐらい、いまの自分は過去の自分が階段を頑張って登ってきたからだとも思っています。